社会物語学のために

  • 死の余波に湧くありがたさ

    7月7日は二つのかけはなれた境遇の星が急接近する日であると言われている。同時に、天への祈りをささげる日でもある。ひとりのひとの命が血祭りにあげられたのはその翌日のことだった。その余波の広がりを見まもりつづけた二週間のあいだ、ことばを失ったまま、ひとりでにじぶんの輪郭がぼやけるほどはげしく震えていた。神の子のひとりとして生まれてしまってからというもの、じぶんの血はこの世の罪の穢れから守られたものなのだと耳元でささやかれつづけてきた。その血のことただただ醜く不潔に思い、生きていることを苦痛に思った。それがいまも体中をめぐっている。自分はいったい何に震えているのだろう。

    そう思いながら夏の朝の光のなかでちいさな動揺をたどってゆくと、深い感謝のきもちとしか言いようのないものが、こんこんとこみあげているのに気づく。そのきもちは、特定の人、事件の加害者や被害者にむかっているわけではない。自分のなかでどろどろしつづけてきたものを浄めるようにとめどなく流れ、生きることを励ましてくれているように感じる。断固としてゆるしがたい殺人事件の余波がここまでひとに生きる勇気を与えてしまうということ、そのあまりにも不謹慎な実感をじぶんはいまだにどう受け止めていいのかわからない。

    事件の前後では、このちいさなじぶんの世界のありかたが大きく変わってしまった。肉を食い破る鉄砲豆のような穴がこの世界にあいてしまって、そこから浄とも不浄ともつかないなにかが生きているものの側のほうへ吹きだしている。それがひとをやさしく、うつくしくしてくれているのだった。もっといえば、ひとを傷つけながら生かすことで、この世界にみちている痛みをすこしでも感じとれるようにしてくれているのだった。

    フランス語には「sensibilité」という語がある。日本語では「感受性」とか「思いやり」と訳されたりする。とはいえ、もうすこしよく考えると、もともと「sensible」という形容詞には「感受性が強い / 思いやりがある」ということのほかにも「痛みや苦痛に敏感である」という意味がある。その文字を目で追いながら、自分の瞳の表面が鋭利な力によって深く切り裂かれてゆくところを思う。開いた傷口が、痛む。しかし傷そのものが痛みなのではなくて、傷が痛みを感知させる。フランス語の「sensibilisation」という言葉は日常的には「人の関心を喚起する」という啓蒙的な意味で使われているけれども、もとをたどればそれは第一に、傷を開く、ということだったのかもしれない。

    じぶんがまだこうして痛みを感じられる存在、痛覚を奪われた死者にならずにいられることがうれしい。この世界には痛みとして感知できないものがあまりにも多く満ちている。世界は基本的に、不感症なのだろう。ちょうど自分の体に開く穴という穴、口や鼻、肛門といったものによってしか感受できないものがあるように、世界はつねにむき出しになって痛みに絶え続けているわけにはいかない。けれども、折に触れて、不意打ちのように、激しい痛みがおとずれることがある。このちいさな世界が7月8日以来の余波のなかでそれを感知しているのを目の当たりにして、ただありがたさとしか表現しようのないものが募る。そんななか、これまで言いしれない憎しみを抱えてきた神の子のひとりとして、それをただ、あまりにもむごいことのようにも思う。