
いつだったか、養老孟司の『バカの壁』という書籍がどの本屋にも平積みにされていた一時期がありました。一度も手にとってみたことのなかった私ですが、近頃よくばかだと言われるようになったので、ふとその存在を思い出したのです。それで要約にだけでも目を通しておきたいと思いググってみると、早速次のようなレビューの文面が目に飛びこんできたのでした。
自分に都合が悪いことには耳を貸さず、情報を遮断する──。いつでもググって検索できる現代においては、自分の知りたい情報だけを知ろうとする傾向は強くなっているともいえるだろう。このような状態では、昔よりもさらに、「バカの壁」の中に入り込んでしまうのかもしれない。
https://www.flierinc.com/summary/2950
本当は何もわかっていないのに「わかっている」と思い込んでしまうときに存在するのが「バカの壁」である、とライターの香川大輔さんがきわめてわかりやすい要約をなさっています。ソクラテスのいう「無知の知」を知れ、ということでしょうか。今でいう「エコーチェンバー現象」や「フィルターバブル」にも通じるところのある考え方なのかもしれません。ただ『バカの壁』にはそこで興味を失ってしまい、本を手にとってみる気も失せてしまいました。わかってしまった気になってしまったのですね。そういう意味では自分はまさに典型的なばかだと言えるでしょうし、この本についての私の知的好奇心はここで途切れてしまうのですが、それと立ちかわるようにして、ひとつの疑問が沸いてきたのでした。「そもそも、なぜひとはひとをばかだと思ってしまうのだろう?」養老孟司さんのお話からはきっとずれてしまうのですが、ここではこのことについて考えたことを覚書として残しておきます。
そもそも、ばかとは何なのでしょうか。まずは、愚直に辞書を引いてみます。すると「(梵)mohaの音写。無知の意」という肩書に目がとまります。無知、とある。無知とは、知を欠いているということでしょうか。では、知とは何か。ここでもまた辞書を引いてみると、物事を判断する能力や精神作用という言い方がされています。辞書的には、こういうものが足りないと、ばかになるわけですね。ただ、もうすこしつけ加えるなら、ある能力や作用の結果生じたもの、つまり知識や智慧のことも知と呼ぶこともできましょうか。英語でいうKnowledge、フランス語でいうConnaissanceです。さらに、ほかにもいろいろな形の知があります。漠然と思いうかんでくるのは、もっと非人格的、集合的な形の知です。たとえば英語やフランス語には、Scienceという語があります。日本語で「科学」呼ばれるものですが、これも広い意味での知と言うこともできるはずです。このように「知」といっても様々ですが、ここでは話を掘りさげるために記号論的な角度から知というものについて述べさせてください。
私がこれから言うことをひとことでまとめれば、知を一つのシステムとして理解することで見えてくるものがあるのではないか、ということです。システムといっても大げさなものではありません。抽象的な言い方になってしまうのですが、ニクラス・ルーマンという社会学者の言い方を借りると、システムというのは自己を他者から区別することで自己を立ちあげる働きのことです。他者とは自己を裏付けるような「陰」のようなものです。このことは、ソシュールという言語学者がことばについて考えたことを例にするとわかりやすいです。ソシュールによれば、ことばとは一つのシステムです。たとえば「あつい」という形容詞。これは不快なほどの高さの温度をあらわす語です。このとき「あつい」という語は、不快感を「あたたかい」との対比のなか、温度の高さを「さむい / つめたい」との対比のなかで意味することができます。それらの対義語がそもそも存在しなかったら、そのような意味は成立しません。言い方をかえれば、不快感や高さの点であつくないもの、そのようなあつさを否定するものがその陰となり裏付けとなっているのです。ようするに、他者からことなるという働き、違うという働きが、自己を自己であらしめている。これがシステムというものの基本的な考え方です。このことは日本語のとりたて助詞の「は」を例にしてみることでも理解できます。たとえば「私は暑いのはきらいだ」という文。これはいわゆる肯定文ですが、日本語の肯定文は否定的な裏付けによって成立しており、そこにはつねに含意があります。たとえば「私は暑いのはきらいだが、あなたはそのかぎりではない(かもしれない)」という含意。「私は暑いのはきらいだが、寒いのはきらいではない(かもしれない)」という含意。これは取りたて助詞の「は」の働きによって可能になるものですが、どんなシステムにも一般的に自己の裏付けになるものを排除しつつ保持する働きがあるのです。
このことを踏まえた上で「知」というものを一つのシステムとして考えてみたいと思います。ここではさしあたり、知とは自己を無知から区別するシステムである、としましょう。その典型が科学、つまりScienceです。科学は、科学的な言説と非科学的な言説を区別します。そして、後者を識別し排除しつづけるプロセスのなか、真実と誤謬の二分法のなかで、科学としての自己自身を立ちあげています。さらに具体的には、これと同様のことが個別の科学論文についても指摘することができます。科学論文には一つの基本的な型があります。それは、問い(問題)を立て、それに答え(解決)を与える、というものです。仮説はその橋渡しをします。きわめて当たり前のことなのですが、問いを立てるためには、人は無知でなければなりません。そして、その問いに答えるためには、知が必要です。つまり、科学的な問題解決のプロセスというものは、無知から知の立ちあがるプロセスなのだ、と言うこともできるでしょう。そして、興味深いことに、科学論文においては、そのプロセスのなかで知が無知の読み手へと伝達される、という仕掛けがあります。専門的な情報を伝達するには、工夫が必要です。そこでよくなされるのが、書き手が無知を装うというものです。読み手と同じ無知の立場に立って、そこから問題を解こうとしてゆくわけです。それが問いを立てるということです。
さらに、このような知の伝達の型は物語一般にもあてはまることです。推理小説のようなものを思い浮かべるといいと思いますが、基本的に、物語の主人公というものは無知の存在です。語り手と主人公が同一人物であり、語り手が自身の体験として物語をするような場合においてさえもです。たしかに語り手は無知ではありません。しかし、物語の世界に主人公として登場する当の本人は、すくなくともその時点では無知なのです。無知ゆえに、同じく無知の読み手が主人公に寄り添い、主人公と同じ立場に立つことができます。そして、主人公が無知から知へと動いてゆくなかで、語り手から読み手への知の伝達がなされます。このように物語一般もまた一種の知のシステムであると言うことができます。
ソフォクレスの『オイディプス王』がその典型です。非常にすぐれた構成を持ったこの物語の主人公は、オイディプス。テーベという都市国家の王です。王というか、治者とも呼ぶことができますが、古代ギリシャの主知主義的な観点からすれば、それは同時に「知者」でもなければなりません。無知の者が国を治めたのならそこに悪が生じ災いとなるからです。ところが、まさにこの物語はスフィンクスの謎を解くほどの知恵者だったはずのオイディプスが王となった途端に不作や疫病がテーベにふりかかる、という皮肉な事態からはじまります。オイディプスには災いの原因がわかりません。そして、その無知ゆえにこそオイディプスは物語の主人公であるのです。全知全能の神は、オイディプスを見下ろす立場にあります。そして、読者も高みの見物をする立場にあるのですが、無知な読者はオイディプスに寄り添うことになるでしょう。こうして、無知から知を立ちあげるシステムとして、オイディプスを真の知者=治者へとむかわせる物語がはじまります。デルフォイの神託によれば、自身の父である先王を殺害した罪人がいまだテーバイにいて、罰せられずにいる。それを見つけだし追放することで穢れを祓い、災いをおさめることができるという。この神託を受けたオイディプスによる犯人探しがはじまるのですが、実はオイディプス本人がその犯人なのですね。というのも、オイディプスは知らず知らずのうちに父殺しをしてしまっていたからです。そのため、物語という問題解決のプロセスは、一つの矛盾に満ちた帰結をむかえることになります。オイディプスが知るのは、自身の無知であり、自身の罪です。このような無知の知によって物語のプロセスは終了しますが、これはオイディプスが罪人として治者の立場から追放されることも意味します。こうして無知を悪とする主知主義の論理が貫徹されるわけです。
このようなオイディプス王の物語を例にして、二つのことを言いたいと思います。一つ目は、無知のないところに知はないということ。ここでいう知とは無知から立ちあがるシステムのことだからです。無知という「陰」なしに知は成立しません。二つ目は、これまでに見たテキスト・コミュニケーションの形においては、知の伝達は無知から知の立ちあがるプロセスを通して可能になる。無知を装う語り手や無知の登場人物に読者が寄りそうことで語り手から読者への知の伝達が可能になる、ということです。物語というものに限って言えば、それは潜在的(バーチャル)だった知が顕在化(アクチュアリゼーション)されるプロセスだと言うこともでき、まさにそれゆえに『オイディプス王』は何度読んでもそこに読む楽しみがあるのでしょう。
これでようやく「なぜひとはひとをばかだと思ってしまうのか」という問いに立ち戻ることができます。たとえば、何らかの議論をしているところを考えてみたいです。話し相手のことをばかだと思ってしまうことはきっと誰にでも訪れる経験です。特に自分ががんばって説明しているのにわかってもらえないときなどは思わず相手のことをばか呼ばわりしたくなってしまう。ばかというのは、知が欠如している、ということです。知の欠如を見出してしまうのですね。もちろん、これは言語コミュニケーションにおいては基本的な状態です。というのも、まさにそのようなインフォーメーション・ギャップこそが多くの言語コミュニケーションを動機づけているからです。ところが、そのギャップが埋まってくれないとき、情報伝達が失敗したときに「ばか」という言い方が登場し、コミュニケーションの失敗を告げ知らせるのかもしれません。つまり「ばか」とは自身の無能をも同時に証拠立てる語でもあるのです。ところが、それは同時に、無知が知へと開かれるその方向性を決定づけようとする表現でもあります。自身は知の側にいて、相手は無知の側にいる。それゆえ、自身の方から相手へと知が伝達されなければならない、というメッセージ、あるいは相手が自分のほうに歩み寄ってこなければならない、というメッセージが「ばか」にはこめらているのではないでしょうか。ようするに「もっとひとの話をきいてくれ」と言いたいときに使われるメタ・コミュニケーションの表現であると言えましょうか。相手を無知の存在として排除しつつ、壁をつくり、知の側の自分自身を立ちあげ、その上でコミュニケーションをとろうとする。ひとはこのようにして、バカの壁を打ち立てる、ということなのでしょうか。しかし、壁はひとが作るものではなく、ましてやばかなひとが作るものではなく、言語コミュニケーションという知のシステムが生み出すものです。
だれかをばか呼ばわりするということ。これは科学論文や『オイディプス王』をはじめとする物語の語り手のコミュニケーション戦略とは異なるものだと言わねばなりません。というのも、物語の語り手には無知を装うことで知を立ちあげる狡猾さがあるからです。これはいわゆる産婆術を得意としたソクラテスの狡猾さです。知とは単なる知識の豊かさのことではなくコミュニケーションのプロセスでもあると考えていた者たちの狡猾さです。
Image – Flammingo, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons