
高校を出なかった身の豚なので、たしかなことはわかりません。しかし、その歳頃に世界の歴史を学んだ人たちは特に18世紀のイングランドで起きた囲いこみの話、聞かされたりしませんでしたか。エンクロージャー? とかいう。第一次産業における資本の寡占が進み、農業従事者の失業が深刻化することで、「労働力」という動員可能な力が生まれ、それが製造業に流れこむことで産業資本主義が発展していったという話。特にウールの原料となる羊の囲いこみで有名ですが、これは同時に人間の疎外の話でもあり、人間がみずから工場の門をくぐり囲いこまれてゆく話でもあるんです。それに嫌気のさした者たちはラッダイト運動やサボタージュ、ボイコット運動などを組織したのですが、もしこのときツイッターのようなプラットフォームがあったのなら、より大きな動員が可能になり、2010年のアラブの春を思わせるような大きな動きになっていたかもしれませんね。
そこで唐突に思うのが、ツイッターのようなプラットフォームの囲いこみから逃れることの難しさです。ツイッターは今後ますますユーザーの囲いこみを強めていくでしょう。しかしそれに対して組織だった異議が唱えられるためには、まさにプラットフォームという囲いこみが必要なのです。財力にものを言わせて囲いこみそのものを買収したり、別のSNSを立ちあげることのできる人は世界にごくわずかしかいません。そこでしみじみ思うのは、自分は大きな人の家の庭に囲われた豚の境遇にあるのだなあ、ということです。大空の下のとまり木にとまる青い鳥とは違う。飛べない豚です。この豚が仮に一念発起して荒野に出たとしても、なにか劇的なことが起こるわけでもありません。人知れず野たれ死んだり、狼に食べられたりするだけです。
しかし、そんな非劇的な豚も最近になってようやく囲いの外に興味を持つようになりました。ある種のノスタルジーとともに思いかえすようにになったのは「ホームページ・ビルダー」や「Dreamweaver」といったソフトウェアが主流だったころのホームページ(ホムペという略称が存在した)の黄金時代のことです。当時はリンク集なるものもあって検索エンジンのないところでゆるく結びついていたのを覚えています。そのような交流の形を見直すことができないのかなあ、と思います。GmailやLineのようなものを使うのもやめて、そのかわり当時は盛んにBBSと呼ばれていたタイプの掲示板をホームページ上に作って、プライベートなやりとりもパブリックなやりとりもそこでできるようになればいいなあ、と。
プログラミングのプの字も知らないどこまでも文系な私ですが、Raspberry Pi4 ModelB(暴騰している)を買い、自宅ウェブサーバーを立ちあげることができました。そして、SynapseというFediverseのためのサーバーシステムを構築することもできました(重くて使いものにならない)。マストドンを通して知られるようになりましたが、Fediverseというのは互換性 interoperability のあるプラットフォームの連合のことです。これはむしろブロックチェーンの世界できわめて重要な概念になりつつあると思うのですが、もしかするとそれにつられるかたちでweb3の文脈で広がってゆくかもしれません。でも、GAFAのような寡占企業はなんらかの革命的なできごとが起こるのを好まないでしょうから、どうなるかよくわかりません。
いずれにしても、多少の根気さえあれば意外とひとりでもできることは多くある。イーロン・マスクのおかげで、そういうことを考えるようになりました。お金もさしてかかりません。Gmailは無料です。しかし、自分のメールサーバーを立ちあげるのも無料でできます。ただほど高いものはないという点では、それぞれ似たりよったりと言えるかもしれません。しかし、その高さが意味するものは、かなり違っているのです。