声の旅、La voix-chambre

コミュニケーションをめぐる覚書#1
@mimei_maudet
Journal : 2022/04/11

Camera obscura

 人生の途方に暮れてしまったとき、過去をふりかえることで時間の暗い井戸の底から思わぬヒントや励ましをすくい上げられることもあれば、かえって深みにはまりこんでしまうこともときにはあるかと思います。私も毎日のようにはまりこんでいます。そんな私にしてはめずらしく、昔の記憶がふいに明るくよみがえる、ということが最近ありました。私は八事という町で生まれ育ったのですが、その山の手の道の交差点の角に「ポップコーン」という喫茶店がありました。たぶん今もあると思います。そして、私が毎日のように散文詩を書きなぐっていたころには幸運にもそこで詩の朗読会が開かれていたのですね。「詩のあるからだ」という集まりです。私は特に江藤莅夏さんの朗読を楽しみにしていたのですが、しかしそれ以上に朗読というものそれ自体の不思議さにしばし胸をうたれたことを今でも覚えています。当たり前の話なのですが、朗読によって空間は震えます。その震えのみずみずしさのなかにいるということの不思議を体でわからせてしまう力が朗読にはある。その余波のようなものに満たされながら原付で夜の道を引きかえし寝つけない夜を過ごしたときのことを、一筋の光の差すように、ふと思い出したのです。その流れのなかで、声は旅をするのだろうか、という疑問が湧きました。するのだとしたら、どのように

L’objectif, ou plutôt la morale à extraire à la lecture de ce livre, est seulement ceci : enregistrez la voix de ceux qui vous sont chers. […] Mon conseil, le seul que j’aie jamais donné dans un livre, vous servira un jour, j’en suis sûre. Même si cette voix, enregistrée, peut troubler votre temporalité à jamais.

Sekiguchi Ryoko, La Voix sombre, P.O.L, 2015.

 ここで唐突に昔読んだものについて記憶をたぐりながら話しますが、関口涼子は『暗い声 La Voix sombre』という稀有なエッセイのなかで大切な人の声を録音してみることをすすめています。録音された声、その声の「いま」にのせいで、わたしたちの「いま」や「ここ」が不確かになるのだとしても。とはいえ、現代のコミュニケーション環境のいたるところに声は浸透しています。わざわざ大切な人の声を録音することを考える必要もないほど声の保存や流通が日常化するような未来もそう遠くないかもしれません。だれもがvlogを日課にするだけで実現します。
 私はあるとき、命を絶ってしまった知人のアカウントがFacebookに遺り、毎年命日になるたびにそこにメッセージが寄せられているのを見るうちに、ウェブはそのまま一つの巨大な墓場でもあるのだなあ、と思うようになりました。しかもつねに「いま」の震えのみずみずしさに覆われた人類の墓場。声は暗い、と関口はいいます。ウェブもまたそんな暗い声のみずみずしさに満ちているのだとしたら、そんななかで果たして声は旅をすることができるのでしょうか。
 私には早速、できないような気がしてきました。とても抽象的には、旅とは時空間の変化のことだと考えることもできます。それを一種の「移動」とみなしていいのかどうかはよくわかりませんが、とにかく、そこには移ろいがある。声はそれ自体が空間のゆらぎなのでそれ自体で一つの旅であると極論を言ってみることもできるし、それが仏教のいう業のように別のゆらぎの連鎖を生むと考えるのなら始まりも終わりのない旅なのだとも考えられます。しかし、そのような妄想をふくらませればふくらませるほど、声の旅という表現の空虚さに気づくのです。
 ここで関口の『暗い声』の対をなすテキストの一つとして、ロラン・バルトが死と写真の問題を語った『明るい部屋 La chambre claire』を挙げておかねばならないでしょう。この奇妙な書名、私の記憶が正しければ、カメラ・ルシダというスケッチのための光学装置を指していたはずですが、このカメラ・ルシダはもともと「暗い部屋 chambre noire」、つまりカメラ・オブスクラという別の光学装置、現代でも使われているフィルム・カメラの祖ともいうべき装置との対比のなかで生まれた言葉だといいます。ここでいう空間の明るさや暗さは当然光学的なものなのですが、バルトはもっと別種の「明るさ」を死との関係のなかで写真に見出そうとしたとも言えます。それがどのようなものだったのかはもう忘れてしまいましたが、関口のいう声の暗さを考える上でのヒントにもなるかもしれません。「明るい部屋」と違って、声には限りがありません。声はどこでも伸びて、浸透してゆく。声はその点、むしろ光に似ています。そして、その限りのない旅の広がりこそが暗い、ということを関口は言おうとしていたような記憶もあるのですが、まあ、あらためて読みかえしてみたらそんなことはどこにも書いていなかった、ということも十分ありえます。いずれにしても、声のなかで、途方にくれます。声も私も、もはやどこにもいけないような気もするのです。