
4月6日には、在仏ロシア大使の不用意なつぶやきが物議をかもしたようです。ブチャでカメラを回すジャーナリストたちの写真とともに「映像撮影のセット Plateau de tournage」というキャプションめいた感想が書かれていました。ようするに「でっちあげ」だと言っているわけですね。すぐさま炎上した勢いで消えてしまったけれど、翌日には「不謹慎で挑発的だ」として仏外相からの呼び出しも受けています。20minutes.frに掲載されたこちらのニュースによれば、在仏ロシア大使のやり方はキーウの近郊で発見された市民の殺害現場はウクライナ軍の「演出 mise en scène」にすぎないというプーチンのレトリックを踏襲するものであるといいます。
このことに関して大した意見も持たない私ですが、報道の仕事とはいったい何なのか、とあらためて考えずにはいられませんでした。というのも「こちら側」の世界を覆う情報を絶え間なく呼吸している私の立場からは、ブチャの報道現場を形容するのに「映像撮影のセット」というのは不正確なばかりか圧倒的に間違っているというほかありませんが、しかしすくなくとも「演出」の現場であることは紛れもない事実であるのではないか、という疑問も頭をよぎるからです。そして、まさにその事実こそがそもそも不謹慎かつ挑発的でさえありえるのではないか、とも思ってしまう自分がいます。何に対して? 死に対してです。
「演出 mise en scène」というフランス語を律儀に直訳すれば「舞台(セット)への配置」という意味になります。もしかすると、報道とはそもそもそのような意味での演出を避けがたく行うものなのではないでしょうか。そこにないものをあるように見せるような偽装とか脚色ということではなくて、見せ方への細心の注意を払い、工夫をする、という意味での演出です。たしかに、このことは舞台の裏側に立つ人の冷ややかな目には滑稽にもさもしくも奸智にたけているようにも映るかもしれません。そして、このような職業的な涙ぐましさが大量の死の現場で組織的に遂行されているという身も蓋もない事実。
このことについては、正直にいえば、私は吐き気を覚えます。しかしだからこそ、非常に失礼な言い方をすれば、このような仕事を引き受けるプロがいるということ、きわめて重要な仕事の現場に自分ではない人間が立ちあってくれているということには、感謝と尊敬の念しか湧きません。そして、だからこそ、在仏ロシア大使をつぶやき単なる問題発言として切り捨てる前に、あらためて報道という仕事の言語を絶する重みについていまいちど考えてみなければならないのではないかとも思うのです。