
ここでは「路上の日本語」という言葉を導きの糸として、いろいろなことを考えてみたい。このコンセプトは、ある人とパリの道端のカフェで話していた折、頭のかたすみにふと浮上してきたものだ。しかし、さらに思いかえしてみると、事の起こりは、2016年の春先、フランスのカレの地にあったのかもしれない。僕はそのとき、通称「ジャングル」と呼ばれる難民キャンプをうろついていた。カレは、ユーロ・トンネルの発着地になっていることからもわかるとおり、英仏を隔てるドーバー海峡の幅がもっとも狭まるところに位置している。そのため、イギリスという新天地を目指してアフリカや中東を飛び出してきた難民が最後の難所として行きつき、ドーバー海峡を越える方途を虎視眈々と探る吹きだまりとしてあった。
日本語を教える、ということしか能のなかった僕は、当然、無力だった。もし、英語教師やフランス語教師であったのなら、状況は違ったかもしれない。これらの言語を学ぶ意欲のある難民はいくらでもカレにいたからだ。しかし、仮に英語やフランス語を教えることができたとしても、結局のところ、僕は別種の無力感を覚えたことだろう。第一に、僕は世界を席巻する英語帝国主義に甘んじることを良しとすることができなかった。あらゆる人間がグロービッシュと呼ばれる一つの共通語を話すような世界、バベルの塔の崩壊以前のような世界は、たちの悪いディストピアでしかなかった。そして、第二に、複言語主義を掲げ、ヨーロッパの成熟した「市民」を形成しようとするEUの言語政策にも、反感を覚えていた。なぜなら、EUの市民概念は、EUという境界線の外部としての「蛮人」、今でいうところの「テロリスト」を死角として必然的に生み落とすように思えてならなかったからだ。言いかえると、EUの複言語主義は、ことばの根本的に通じない外部の他者を排除したところに成立しているように思われたのだ。実際、フランス語教師のボランティアがカレに吹きだまった難民に対してできたのは、せいぜい、フランス語を教えこみ、良きフランス市民に作り変える、というヴィジョンを思い描くことくらいだったように思う。
しかし、現実には、僕はカレで英語とフランス語を苦しまぎれに話すことしかできなかった。つまり、サバイバルのために英語帝国主義やEUの言語政策に進んで屈していく難民たちに対して、いかなる代案を示すこともできなかった。このときほど、一つの強い言語が人と人とのバーバル・コミュニケーションを牛耳ることの不快感を覚えたことはなかった。そして、この不快感はそのまま、人に日本語を教えることへの嫌悪感にもつながった。実際、日本語教育や国語教育というものが帝国ならびに国家の成立過程で支配の装置として生まれてきたことからもわかるように、ただ一つの言語を話す、あるいは教えたり学んだりする、ということの底には、根深い暴力が潜んでいるように思えてならなかった。それでもなお、僕は日本語教師という邪悪な生業に手を染めていた。カレをうろつきまわって以来、僕は頭のどこかでその矛盾を解こうとしていたように思う。いわばそれは、解いても解けない一つの謎のようなものだった。
僕は今、自分が抱えこんだこの問題をあらためて見つめなおすために、「日本語」ではなく「ことば」というものをここで考えようとしている。
ことばとは、何か。もちろん、僕にはよくわからない。ここではとりあえず、ソシュールに倣い、langage、つまり言語活動の総体とでも考えておこう。要するに、ことばとは、人と人との間に生じる動きの一種だ。それに対して、langue、つまり言語は、動かない。ソシュールも述べているように、言語は個々人の頭の中にある体系のことであり、日本語もその一つである。体系にはルールがあり、そのルールを教えることはできる。現にそうやって、複雑なゲームの規則でも伝授するように、日本語は教えられてきた。
日本語はそのとき、静的な体系として「死んだことば」になる、と考えてみたらどうだろう。あるいは、こう言ってよければ、ことばはいつも、人と人との間に未生のものとしてあり、日本語として、死産しつづけるのではないだろうか。日本語というゲームのプレイヤーとして、人はことばを生きる。しかし、そのとき、ことばは、日本語の諸規則の中で、自由を失う。たとえば、野遊びに興じる太古の子供たちのことを想像してみたらいい。自分たちでもよくわからないまま、はしゃぎまわっているうちに、鬼ごっこのような遊びを発明する。そして、それ以来、もっぱらその遊びに熱中するようになり、ほかの遊びを発明する力を失ってゆく。日本語母語話者も、ちょうどこのように、日本語にことばの自由を奪われているのだとしたら、どうだろう。
もちろん、次のように考えることもできるかもしれない。日本語は、数ある言語ゲームの一つに過ぎないのだから、人は、そのゲームを出て、別のゲームをはじめなおすことで、別の自由(ならびに不自由)を獲得することができる、と。たしかに、ここで教育の世界に目をむけてみると、言語は個人が獲得できる知識としてのリソースであり、それを教授することで個人の社会参与をうながすのが教師の使命である、と考えるむきもある。しかし、この考えには、一つの落とし穴があるような気がする。
時枝誠記が『国語学原論』の中で述べているように、言語を個人の道具として見立てるためには、発話者と言語を切り離して考える必要がある。しかし、そもそも、これらの二つは不可分のものとしてある、と考えた時枝は、そのように発話者から切り離された言語概念を生みだしたソシュールの理論に異議を申し立てたのだった。時枝にとっては、言語は個人の表現としてある。これは、言語という道具によって個人が何かを表現する、ということではなくて、言語こそが表現された個人そのものである、ということだ。
この考え方は、日本ではあまり流行らなかったようだけれども、あらためてフランスに目をむけてみると、『一般言語学の諸問題』においてエミール・バンヴェニストが、時枝に通じるような考えをもっと洗練された構造主義の理論の中で練りあげている。バンヴェニストによれば、言語なくして、個人はない。人はことばという言語運用を通して、個人=「私」という主語になる。つまり、言語は、人が道具として駆使するものではなく、人に先立つかたちで人と人との間にあり、人を人たらしめるものだ、という考え方だ。これは、敷衍すれば、「日本語人」や「フランス語人」というものはあっても、何語にも属さない「個人」という抽象物は幻想にしかすぎない、ということでもある。
したがって、言語を抽象的な個人が利用可能な道具として想定することは、人が人として存在するためには、まず言語という一つの具体的な場に身を置くしかない、というリアリティを見逃すことに繋がるかもしれない。要するに、ある日本人がツールとして便利だからといって英語を習得することは、一個人が単なるバイリンガルになることを少しも意味しない。英語は、身につける「もの」というより、身をおく「場」、人を人たらしめる具体的な条件そのものにほかならないからだ。
言語という「場」には「重力」が働いている。やや唐突かもしれないが、ここで「重力」という語を持ちだし、それを「言語」に重ねあわせるのには、理由がある。第一にそれが「不可抗力」としてあり、第二に二つ以上のものの間に働く「関係性としての力」であることを強調したいからだ。それは「道具」や「リソース」のようなイメージと違い、個人に先立つ与件としての言語の性格をよく表している。実際、この地球上の私たちはつねに重力という不可抗の中で生を営んでいるが、それがなければ、私たちはそもそも存在さえしなかっただろう。
ここではさしあたり、言語という場の持つそのような重力に思いを馳せよう。たとえば、「Je pense, donc je suis」とつぶやけばフランス語という重力の中に、「我思う。ゆえに我あり」とつぶやけば日本語という重力の中に、「je」や「我」は身を置くことになる。そして、そのような重力なくして、人は人たりえることができない。つまり、人はただ一人で孤独な思索に耽っただけでは、存在できない。なぜなら「人間」という語に端的に示されているように、人は、他のフランス語人や、あるいは日本語人との間に生まれることばの中でしか、「je」や「我」たりえないからだ。そのような意味で、重力はまず、巻きこむ力のことである。ウィトゲンシュタインに倣って言いかえれば、人は孤独な「私的言語」を持つことはできず、他者の言語につねに巻きこまれてこそ、人として思考できる、ということだ。
重力は、享受することもできれば、反発することもできる。そして、おそらく、日本語教師の職分は、重力を享受し、重力を増幅させ、日本語という言語ゲームの中に人を巻きこむことにある。それはようするに、ことばを日本語として死産させつづけるということだ。
では、仮に「ことばの教師」というものがあるとすれば、この教師は一体、何をするのか。おそらく、ことばの教師にできることは、かぎりなく少ない。というか、せいぜい、ことばを駆使することくらいしかできない。しかも、何語においてことばを駆使するのか、という厄介な問題を、ことばの教師は抱えている。ただ、一つ言えるのは、日本語教師がことばを死産させつづける使命を持つのに対して、ことばの教師は、ことばに息を吹きこみ、命を与えなければいけない、ということだ。ことばの教師はそのため、一つの言語の話者(たとえば日本語人)であることをやめなければならない。そして、複数の言語の間を行き来するものとして、学習者とともに、言語(とりわけ自身の母語)の持つ重力を振りはらわなければいけない。
そのための手っ取り早い方法として考えられるのは、教室を捨て、路上に出る、ということだ。教室という「家」ないし「国民国家」を思わせるような閉域の中ではたいてい、ひとつの「母語」ないし「母国語」が専横を振るう。しかも、教室に集まってくる学習者たちは基本的にそのような一つの言語を話したいがために来ているのだから、その閉鎖的な集まり自体が外部との言語障壁をなしていることに気づかない。とりわけ、日本国における日本語教室となると、外部においても圧倒的に日本語が話されている以上、余計にそのような専横が看過されることになる。言語は、このように、人と人とを閉域の中で結束させるとともに、その外部という死角をつねに抱えこむ。
ことばの教師は、このような言語の重力に対して、ことばを開いてゆく。しかし、それは、たとえば、日本語を話すのをやめる、ということではない。ことばの教師は、日本語という抗いがたい重力の中に身を置きながら、それでも非日本語人であろうと試みつづけることで、日本語として死産してゆくことばに、ふたたび息を吹きこもうとする。
しかし「ことばに息を吹きこむ」とは、どういうことなのか。たとえば、細川英雄は『研究活動デザイン』の中で「母語の再主体化」という言葉でひとつの道筋を示している。あるいは、母語を出ることも視野に入れれば、「ことばの主体になる」や「ことばを主体化=相対化する」というもうすこし抽象度の高い表現を引くのがここでは適切かもしれない。「ことばを相対化する」といっても、日本語という制度=ラングを客体化し、知識というリソースとして身につける、ということでは少しもない。そうではなく、それはことばを「私」が引きうけなおす、ということだ。このときの「私」はもちろん、単なる抽象物としての「個人」などではなく、ことばという具体的かつ社会的な場を他者とともにしか生きることのできないものだ。
このとき、私たちは、別に日本語など話さなくても全く構わないことに気づく。それと同時に日本語(あるいは別の言語)の重力を感じとり、人を巻きこんでゆくその重みを知ることになる。たとえば、自身が日本語しかまともに話せない、というような現実や、教室の内外を問わず、日本国ではしきりと日本語が話されている、というような現実の重みを知ることになる。
ことばの教師はおそらくそのとき、人を巻きこんで増幅してゆく日本語の重力、言語という閉域を生み出す力の中で、日本語ではない他の言語の言語に居場所を与え、重力の一極化としての日本語の専横を防ごうとするだろう。具体的には、路上、教室を問わず、そこにいる人間の「言語権」を守り、日本語以外の言語で話すよう勇気づけようとするだろう。
たしかに、人は、ことばが通じないとき、怖気づく。たとえば、人は、パリの路上において、日本語で見ず知らずの人に話しかけたりしない。なぜなら、フランス語の重力に支配された町であるパリでは、基本的に日本語ではことばが通じないことを知っているからだ。たとえ日本語を教えこむことを職分とする日本語教師であっても、よほど暇でなければ、いちいち路上で日本語を教え、ゼロからコミュニケーションを立ちあげるほどの時間を持ちあわせていない。
だから、具体的なレベルでことばの教師ができる数少ないことがあるとすれば、それは未生のことばに時間と場を与え、それが芽を出すように勇気づけること、そして一度根づきはじめた芽が、ほかのことばの芽を摘みとることのないよう手入れを怠らないようにする、ということだ。まるで一つの山を杉の木だけが覆ってしまうように日本語が一つの場を占めてしまうのは、間違っている。日本語は教室という閉域を飛びだし、路上でほかの言語に揉まれていかなければいけない。それが、共生をするということだ。
日本にいつか「ことばの教室」というものが生まれるとしたら、きっとそのような共生の場、だれにでも開かれた教えあいと学びあいの場、日本語ではない自身だけのことばを話すことを勇気づけるための場となるはずだろう。そして、それは「第三の言語活動研究という新しい方向性」(細川英雄)のひとつを指し示すものとなるはずだ。
(2018/09/27, ルビュ言語文化教育 第 679-680 号)