ちかごろ「アテンション・エコノミー」という言葉を耳にするようになりました。日本で「かまってちゃん」という言い方がでてきたのは、mixiをはじめとするSNSが普及しはじめたころだったと記憶していますが、今になって思うと、まさにこのかまってちゃんたちこそがアテンション・エコノミーの到来を告げる尖兵たちだったとも言えるかもしれません。そこで、アテンション(関心)とは何か、ということから考えてみたいと思います。下記の記事には、アテンションもまた金銭をはじめとする資産と同様、経済に組みこまれた有限な資源の一つとして捉えることができる、と書かれています。
英語には「pay attention」という表現があり、「関心を払う」と日本語に訳されたりします(ちなみにフランス語では「prêter attention」つまり、関心を貸しだす=一時的に提供する、ともいう)。現代においてこの表現はもはや比喩としてではなく文字通りに受けとめられなければならなくなったようです。ウェブ上に様々な無料のサービスが溢れかえって久しいですが、私達はそれなりの対価をアテンションによって支払ってきたのです。このことについてはすでに多くの社会学、経済学的な研究がなされているはずですが、私がとりわけ気になっているのは視聴覚メディアのあり方へのアテンション・エコノミーの影響、それからそれにまつわる公共性の問題です。
歴史を振りかえってみると、ヘッドフォンやイヤフォン、ひいてはウォークマンや携帯電話のような聴覚メディアの再生機器の誕生は、私達の空間の認知の仕方を大きく変えてしまいました。たとえばかつて教会の堂内で同じ音楽やことばに一斉に耳を傾けていたときは、空気の振動する公共空間を共有していたわけですから、そこにはメディアの私的な消費はありません。これとあわせて、まだ多くの人が文字を読めなかったころ新聞のようなメディアは基本的に声を出して読まれていたということを思い起こしてもいいかもしれません。テレビだってそうですよね。かつては多くの家族が一つの画面をいちどきに見ており、それが「家族だんらん」という公共空間の担保になっていた。ところが識字率の上昇とともにひとりの人間が黙読をするという習慣が生まれたことである種の密室としての「内面」が誕生し、それが文学というものの土壌を形成したように、イヤフォンの登場やパーソナルコンピューターの登場によって、とても孤独な消費者が生まれ、その孤独こそがワールドワイドウェブを支えています。
今では電車に乗ると、多くの人がイヤフォンをつけて携帯電話の画面を見つめています。しかし、まだ私達が文盲だったころ、ウォークマンを持たなかったころは、そのような車内の公共空間のあり方は考えられませんでした。そんな中に本をひとりで熱心に黙読している人間を置いたとしたらとても奇異に映ったはずです。このような時代においては、私達のアテンションの大半は文字ではないものに割かれていました。読書をするということは文字にアテンションを払うことですが、アテンションは有限なものである以上、これは文字ではないものにはアテンションを払わないということの裏返しです。このことを踏まえた上で現代のアテンション・エコノミーの話に戻れば、すくなくとも始終パソコンの前に座っている私の場合、かつてのような読書の形はありえなくなったというほかありません。なぜなら、私のアテンションの多くがそもそもウェブを織りなす文字情報に割かれているので、本に向きあうということがアテンションの宛先の切りかえの役目を果たさなくなったからです。
このときに思いおこされるのが近年のPodcast文化やオーディオブック文化の台頭です。たとえば日本にもOtobankのような出版社が生まれています。ここには「読むことば」と「聴くことば」の差別化の動きがあるとも考えられるのかもしれません。というのも読むことばの価値は私達のアテンションを対価に生まれた無料の文字情報の氾濫によって暴落してしまったからです。これからはますます多くの人が本を聴くことになると思うのですが、これはある意味、黙読が普及する以前の時代への回帰でもあります。ただ明らかに違うのは、ことばを読む声は公共空間ではなく孤独な消費者の耳の中に直接響きわたる、ということです。
私は町を散歩をしながら本を聴くのが好きです。私の使っているイヤフォンはオープン型なので私の耳は公共空間の外気にも触れています。公園の葉ずれの音も背後を通り過ぎるのトラムの音もちゃんと聞きとめている。人に声をかけられたら返事をすることもできるし、スーパーのレジ係の人と会話をすることもできる。しかし耳には私にしか聴かれることのないただ一つの声が響きわたっているのです。