
幼いころによく早口だと言われた。しかも早口で喋りながら吃りつづけていた。面とむかってではなく斜めにうつむいて話す。そのせいか、自分の両目はどうして肉食動物のように顔の正面についているのだろうといまだに思ってしまうことがある。そういうのは目の前のものと対峙し距離をはかるためにある。その一方で、顔の両側に目のついた草食動物においては「目の前」という言い方はできない。だから対峙もしない。ただ、逃げるためにある。追うのと違い、逃げるのには、相手を見たり対峙したりする必要はない、というか、してはならない。わたしは、どちらかといえば、そういう類の動物なのだった。植物の達観には届き損ねた感のある。そのことに自分自身で微量ずつ傷つきながら高速で吃りつづけてきた。
いまおもえば、美術館にいて心安らかでなくなるのもそのためなのだ。一枚の絵画の前に腕を組んで立つ。近づいたり遠ざかったり首をかしげたりしながら絵をためつすがめつ見る。そのような仕草のなかで、何かが決定的にまちがっているような感じがしていつもかなしくなった。わたしはいつも闇のなかで触れたり声を聴いたりすることのほうにやすらぎを覚えた。ひとや動物と目をあわせることはできなかった。目と目のあまりにもたよりない距離に例えようもなくいたたまれなくなった。そうするうちに、後ろめたさのかたまりのような薄情者ができあがる。
ひとやものに向きあうのは、呼びかけに応答する、応じる、ということでもあるのかもしれない。エマニュエル・レヴィナスという哲学者は、それを責任の問題ともとらえていた。というのも、フランス語の「応じる」という動詞「répondre」には「受けあう」という意味もあるからだ。日本語でも「電話を受ける」という言い方が「電話に応じる」の類義表現としてある。なにかを「うけたまわる」。責任を持って引きうける、ということ。フランス語では責任のことを「résponsabilité」という。直訳すると「応答できること」となる。無責任を意味する形容詞は「irresponsable」となるけれど、これは「応答できないこと」を意味する。できるかできないかをめぐっては、 能力可能と状況可能の区別があって、まさにその揺れのなかに責任という問題の難しさの一端がある。
自分にはあまりにも責任感が欠けている。たしかに、電話、呼びかけに応じたことはほとんどない。居留守が基本である。煽られてもさして気にとめない。けれども、ときにはそれがひとをあまりにも深く傷つけることがあった。何度となくその重みに押しつぶされ、ぼろぼろになりながら、意思と努力によって克服しようとしてきた。そのたびにこの世界の状況から見放されている自分がいることにも気づき、このまま生きていてもいいのか心の底から心配になる。広いひだまりのなかで呑気に草をはんでいられるときはいい。けれども、狼があらわれたり、核弾頭が近所におとされたときに、自分はいつも、自分がまだ生きながらえていること、自分が動物であることの途方にくれてしまう。
Dans le discours je m’expose à l’interrogation d’Autrui et cette urgence de la réponse pointe aiguë du présent m’engendre pour la responsabilité ; comme responsable je me trouve ramené à ma réalité dernière. Cette attention extrême n’actualise pas ce qui fut en puissance, car elle n’est pas concevable sans l’Autre. Etre attentif signifie un surplus de conscience qui suppose l’appel de l’Autre. Etre attentif c’est reconnaître la maîtrise de l’Autre, recevoir son commandement ou plus exactement recevoir de lui le commandement de commander.
Emmanuel Levinas. Totalité et Infini. Martinus Nijhoff. 1961.