しるしとして舞いおりるもの

@mimei_maudet
Journal : 2022/07/18

 ベランダに次々とあらわれるハトの卵を五月からひたすら捨て続けている。その数、17になる。卵をつまみあげる今朝の自分の手つきには迷いがなかった。けれど、自分自身が腹を決めている、というのとはすこし違った。ズッキーニのプランターから強情に動こうとしないハトの首根を抑えこもうと手を伸ばせば、それを反抗的に振り払うようにして飛びあがりベランダの手すりにとまる。わずかに足踏みをして体勢を整えなおそうとしたところを捕らえようとすると、身を翻して空へ滑りおちてゆく。その姿を見届け屋内に戻ろうとしたとき、ズッキーニの葉陰で白く光り輝いている卵に目がとまった。

 いつもの光景だった。もはや虚を突かれたという感はない。ひるみもしない。つまみあげ手のひらで包むと、ぬくもりの震えていることがわかる。飛翔力をもったやわらかな魂のひとつが人の手中に落ち、命の危機にひんしているのだった。いつもならそこで、迷いが生じる。そんな自分の弱みにつけいるようにして卵はさらに震えあがり、命からがらの体で手中をすりぬけていこうとする。そこで自分はあらためて決意をかためなおし口をつぐみ息をとめてごみ箱に捨てる、ということになる。けれど、今朝にかぎっては、迷いの湧く前に手が動いていた。卵につられて手が震えていた。まるで自分の手ではないみたいだった。その震えを抑えこもうとして力をこめたとたん、何のはりあいもなくひび割れ、破裂した。さきほどまでの渾身の震えは盛大な演技だったのだろうかと思ってしまうほど淡白でしらじらしい終わり方だった。

 目の前に広がり眼下へ吸いこまれてゆく七月の空は青い。のぞきこむと後頭部のほうから引っ張り落とされそうになる。命を粗末にしてはいけないといつだったか教えられた。命の重みをはかりかねる子供だった。命をあつかう軽い手付きは不快感を誘う。そういう子供は自分自身の命もけろりと捨てたりする。跳躍力だけはある。無根拠に自信は湧く。しかし、いまの自分のようにいったん歳をとってしまうと、命はいきおいこの世界の重力にひきずられ、たるみがちになる。地に足がついている分、命の地上の重みにだけは敏感だ。ただ、いまでも、命にふしぎな飛翔力があらわれることがあった。それは命がひとつの「しるし」あるいは隠喩になるときなのだった。

 この春先からハトはひとつのしるしとして幾度となくわたしの日々の生活に滑りこんできた。そして幾度となく子作りを試みた。ハトからすれば簡単なことで、かつて自分の生まれた巣に帰ってきているのだった。そして自分と同じような生をもう一度立ちあげようとしている、というだけなのだった。けれども、本当は、わたしには、それ以上のとてもとても痛切な意味があり、ハトはわたし自身を映しだす鏡でもあり、それはひとつのしるしなのだった。そのことを理解できずにいたわたしは、粘り強いハトの試みに何度も生活を揺さぶられながら、迷いのなかでしるしを壊しつづけた。ただただこみあげるハトへのいとしさに胸が詰まるなか、身勝手にその命を殺めつづけたのだった。なぜ気づかなかったのだろう。自分とハトとの物語が、本当はただひとつの寓話でしかなかったということに、それを語っている自分自身も無自覚だった。けれども、つい先日、自分の暮らしにとってとても大きなひとつの転機まで押し出されてしまったいまのわたし、人生の途方にくれはてたわたしにならわかる。とても個人的なことなので、それをここに書くのはゆるされない。それはわたしだけの特別なしるし、わたしだけが自分の胸に秘めておかなければならないしるしなのだった。

 これからもハトは何度となく襲来するだろう。それを追い払ったり卵を破壊したりする手付きに、もう迷いはない。それは命を軽んじているからではない。むしろ、命はいまだかつてないほどの地上の重さをまとっている。なぜなら、その命にはかつての飛翔力がもう残されていないからだ。卵がたましいを震わせることも、きっともうない。この先には長い喪が待ち構えているのだった。